特別対談

福岡明先生にお話しをお聞きしました。

藤平信一 心身統一合氣道会 会長

東京工業大学 生命理工学部 卒業
慶應義塾大学 非常勤講師・特選塾員
幼少から藤平光一(合氣道十段)より指導を受け、心身統一合氣道を身に付ける。心身統一合氣道の継承者として、国内外で心身統一合氣道を指導・普及している。

福岡明 先生

歯科医師
医学博士
医療法人社団明徳会福岡歯科会長


『氣の威力』のエピソードに登場された医学博士で歯科医の福岡明先生(88歳:2015年当時)に、「氣」の師匠である藤平光一先生との出会い、そして、これまでの氣の活用についてお話をお聞きしました。福岡先生は医学界における藤平光一先生の最大の理解者です。

「氣」が縁を育てていった

藤平信一会長(以下、藤平):福岡先生のこれまでの足跡を教えて頂けますか。

福岡明先生(以下、福岡):私の出身は隅田川の両国橋の一角の浜町と問屋街の間の薬研堀(やげんぼり)という町の日本刺繍屋の次男坊に生まれました。18歳で兵隊検査に合格し、当時は4月に大学に入っても6月には入隊が決まっていましたが、医者か歯医者の学校は学徒出陣が延期になると知り、歯医者の息子でないので何も分からない中、母親の願いで歯科医専の入学試験を受けました。8人に1人の倍率でしたが幸いにも合格できました。当時は負け戦でしたので米軍による3月10日の東京大空襲に会い、雨の様に落ちる焼夷弾にやられて家も家財も無くなりました。私は水を被って母の上に被さっていたら、焼夷弾が自分の隣の人に落ちて、自分には当たりませんでした。自分は運が強い男だと思いました。
 母達は疎開先に行き、自分は渋谷区幡ヶ谷で一軒だけ焼け残っていた叔父の家に下宿して歯科医の学校に通いました。お金も無い中、母が着物を売ったりして授業料だけはどうにか払ってくれました。私は薬剤師の息子の友人から配給の重曹を安く仕入れて闇屋みたいなことをして、医学書を買ったりしました。また終戦後は新橋の駅前で宝くじを売るアルバイトもしました。女性の事務員達が、若い男子学生を見たいと評判になり、毎日一枚ずつ宝くじを買いに来てくれた女の子もいました。お陰で高い医学書も買えました、ラブレターを貰ったこともありました。戦時中、工場での勤労奉仕の際には、隊列を組んですれ違う女性の目を見ただけで殴られる様な、女の「お」の字もとんでも無い青春時代でしたから、大きな変化でしたね。

藤平:大変なご苦労をなさったのですね。

福岡:貧乏で良かったこともあります。お医者さんや地方のお金持ちの息子から、自分では買えない本を借りて、試験に出そうな所を書き写して勉強もしました。これが良かったですね。写しているうちに全部頭に入ってしまうんです。1、2年生の時には落第するかと思った位難しかったのですが、4年生ではトップになってしまいました。戦前は従業員が20数名いる中小企業主の次男坊で、ある程度贅沢をし、その後、空襲で何もかも失ってしまいましたが、学校だけは卒業しなくてはいけない、家族を養う為に早く稼がなくてはいけない、という氣持ちがありました。それも運だと思います。もし、自分が金持ちの息子だったら、そんな根性は養われませんよね。当然現在は無いと思います。
 空襲だとすぐに授業が止まる中での勉強でしたから、歯科医師免許の試験は通っても、すぐに開業ができる腕はありません。何とか慶應義塾大学医学部の研究生に合格しましたので1年半ばかり通わせていただきました。当時、役所で日本橋の焼けビルを応急的に補修した部屋に罹災者を入れてくれました。多くの罹災者は防空壕にトタンをかぶせての生活でしたから、ボロビルに入るだけでも贅沢でした。私のうちも8坪の部屋を借りて、親子六人で雑魚寝していましたね。そのうちに文系大学で学徒出陣していた兄が兵隊から戻り、メリヤス組合の業務(糸を配給する係)をしてある程度稼ぐ事ができ、焼け跡に家を建ててくれました。これも運です。
 そこで空いたビルの8坪を利用して昭和24年に歯医者を開業することになりました。業者と掛け合って、今でいうローンで診療台を1台買い、23歳と10ヶ月での開業でした。それからが奮闘です。戦争中は皆、歯はめちゃくちゃな人が多い。沢山の若い歯医者さんが戦争に行ってしまい、終戦後は歯科医院も少ないので、23歳の若造でも患者さんは来て下さいました。日本橋という情の深い下町ですから地元の小中学校の友人も誘い合って来院してくれました。そのうち、私一人では不安でしたので、後輩を一人また一人誘い、だんだん増えて、隣の部屋も借りてとうとう3階ワンフロア全部使い、昭和37年には医療法人にしてスタッフも40名程になりました。
 やはり商人の遺伝子かと思いますね。歯医者の息子だったらこんな度胸が無いと思います。私は商業学校出ですから借金の仕方も知っていたのでしょう。下町っ子の氣安さで如才無い。普通の医者は上から下へ目線が行くところ、私はどんな人にでも商人みたいに頭を下げて「いらっしゃい!」と手を取るような氣持ちで親切に治療しました。それが評判になり、そのうち町全体で応援してくれるようになりました。伝染病予防委員にもなり町内でのゴキブリ駆除法などを教えているうちに、近隣の奥様連中が集まって「福岡明先生ファンの会」と称して毎月1回レストランを借りて講演会と食事会を開いて下さり、そこでも新しい患者さんが増えていきました(笑)。

藤平:まさに「氣」が縁を育てていったのですね。

福岡:その通りです。余談ですが、うちのドクター達にはキャバクラに5回行く所を、銀座の高級クラブに1回でも行くようにと教えています。銀座の高級ホステスはお金も持っていて、美しくなる為に歯を氣にする。こちらは遊んで、ホステスさんは患者さんとして来て下されば良いですよね。また氣の合う患者さんがいたらお誘いして、一緒に銀座のクラブに連れて行きます。すると、その患者さんが感謝して、また別の患者さんを連れて来て下さいますね。
 ビール1本だっていい縁になりますね。私の若い頃は夜の9時頃まで診療し、途中で食事をして家に帰っていました。ある晩、行きつけのレストランで学生さんが三・四人来ていてビールを頼んでいるのにウェイトレスが一人でなかなか出てこない。そこで私は自分のビールをついであげてついでに名刺も渡し「歯の痛い時は来て下さいね」と挨拶をしました。そうしたら来て下さいましたね。その学生さんの一人は市川の豪邸に住む大きな石油会社の専務の息子さんで、歯の治療に妹さんを連れて来てくれました。その後、妹さんの友人も来て下さったのですが、彼女もまた大きな鉄鋼会社の社長令嬢でした。「私も治してくれ」と、父親の社長さんまでも来て下さるようになり、汚いボロビルの前にキャデラックを停めて壁の落ちている3階まで来て下さったのです。そして続いて鉄鋼界の大物も紹介して下さいました。彼らは皆、健康保険でなく自費診療。これも運ですね。
 人の縁。運。下町の氣さくさ。ちょっとしたきっかけで人脈を作ることができる。これも遺伝子なのですかね。私の努力というより、何かついている。運命の神様でしょうか。どんどん良いドクターも集まりました。皆、勉強家でしたから、そんな刺激があったのでしょう。私も博士論文くらい書かないといけないと思いました。

藤平:博士論文はどのようにお書きになったのですか。

福岡:医学博士の学位をとろうと、東京歯科大学の生理学教室で唾液の研究をしたのですが、途中で教授に条件反射学(大脳生理学)に代わってくれと言われ、学芸大の心理学実験室に行かされました。それもまた運。それが良かった。午後の2時まで診療所で患者さんの治療をして、それから大学に行って実験するという日々でした。学位論文の研究を円滑にするためにプロジェクトを立ち上げ、理科系の学生を集めて電氣系統の実験装置を作らせました。自分では作れないものを、2、3人の学生アルバイトが考えて作ってくれました。被験者も日当500円くらいで集めることができました。インストラクターの助教授は英語とロシア語ができる方で文献を全部訳してくれました。それも運です。その時こそ一人でやっていたら何もできないことを実感しました。研究はやり出すと「麻薬」と同じです。それだけに心を奪われますね。全力で取り組んだところ、昭和30年に良いデータが出て、金沢での第35回日本生理学会で発表しました。それをたまたま大阪大学の第二生理学教室の吉井直三郎教授が聞いておられ、ラジオでユニークな研究だとご紹介下さいました。翌日、その御礼を言いに行くと、大阪に来て追試してほしいと頼まれました。毎週末、夜9時の銀河という夜行列車の3等寝台で大阪に翌朝4時半に着き、朝飯屋で食べて仮眠して8時半から大阪大学で研究という生活が始まりました。実験結果を何とかまとめて提出し、昭和33年に32歳で大阪大学から医学博士の学位を受領しました。それも運命です。ですがやはり運は自分で切り開いていかないといけない。一つ一つ努力するから運がつくと分かりましたね。正に藤平光一先生の教えそのものです。やる氣、プラスの氣。私はものすごく運が強いです。
 学位の研究を続けながら、経営も発展しました。一般的に歯医者はあまり多くの人を使わないのですが、私のところにはたくさんのスタッフがいました。俳優座の養成所にいた女房の妹に受付を手伝って貰ったら、「女を使って客引きをしている」と近所の同業者から地方新聞に批判を投稿されたこともあります。口ばかり見ている歯医者はどうしても近視眼的な性格になりがちなのですね。私の場合は経営も勉強も全て含めて4歳から9歳までの原風景が今の88歳まで全部繋がっているようです。

藤平:毎年、帝国ホテルで盛大な新年会をなさっています。政財界、芸能界で第一線の方が多く参加されていますが、それも「縁」なのですね。

福岡:確かに帝国ホテルで毎年新年会をする歯医者も他になかなか聞かないですよね。「ここに来ないと一年がおかしいから足が向く」と言って頂く方が多いです。会場で周りを見ると議員さん、お相撲さん、女優さんとくれば、「これは来なくてはいけない」となる。条件反射学を利用した完全なる集団催眠の様なものですかね(笑)。開業当時、ある女優さんから、飛ぶ鳥を落とす勢いの三遊亭圓歌師匠を紹介されました。彼も向島の人間で下町っ子ですから氣が合い、暇があると遊びに来る様になりました。彼から相撲界の横綱や外務大臣 鳩山威一郎先生などの立派な方々を紹介されました。それ以来のご縁で、皆様、新年会に毎年お運び下さるのです。50代には日本橋歯科医師会の会長もやり、他にも色々な役職もやりましたから人の為に尽くす喜びを知ったと思います。
 私の様に地方と違って、都会のど真ん中で70数名のスタッフを全員正社員で雇って経営する歯医者は珍しいようですね。私は商人の息子で、子供の頃からずっと賑やかの中で過ごして来たものですから、とにかく賑やかなのが好きなのです。ある時期にはドクター25名中11名は博士号を持っているような環境で、年中勉強の中の生活でした。週1回各院セクション毎に集まり、月1回は全体ドクターの勉強会を開きます。若い先生に教わるのも、若さの秘訣ですね。新しいこと、発展した医学、学問を若い先生に教わると、その氣になって自分も若くなる。今でも仕事場に行くのが一番楽しいですね。

藤平光一先生との出会い

藤平:藤平光一先生との出会いについてお聞かせ頂けますでしょうか。

福岡:少しでも患者さんの痛みや苦しみを取るために、私は現代歯科医学に代替医療をドッキングするいわば統合医療の研究をしてきました。ある時、大阪で講演後に倒れ、肺炎と診断され4ヶ月入院しました。近所の方に合氣道の呼吸法を薦められ、藤平光一先生を訪ねました。藤平先生が氣圧をして下さり、胸のモヤモヤが一度で無くなってしまったのです。その後も大塚豊先生に氣圧して頂き、たまたま氣圧療法学院(現・氣圧法指導者コース)の二期生募集がありましたので入学しました。山本晶一先生も同期でとても楽しかったです。講義が終わると毎回皆で昼食会。在学中、医学講座の講師も担当させて頂いたこともあります。通っているうちにすっかり体調は良くなり、それ以降、大きな病氣はしていません。時々ポッと軽い肺炎と診断されてもすぐ呼吸法を続けることで快癒に導きます。なんで治りが早いの、と医者には七不思議の一つだと言われるくらいです。藤平光一先生にご指導頂けたのも運です。運はちゃんとした付き合いをして、人の話に耳を傾けるなど、自分で切り開かないといけないと私は思います。
 氣圧法の講義中、藤平先生の戦地でのお話も直にお聞きできました。ハワイ講習にも妻と参加させて頂きました。スタッフを連れて栃木の総本部道場の宿泊研修も受けました。
 今の恵まれた環境で育った若者もこういう研修には連れて行きたいですね。社会環境も良くなり、現今の若者達は弛んでいる様に思います。皆、恵まれて優雅になりすぎているんですね。「医学部に入るなら何もしなくても良いから勉強勉強」と親もそんなように子供を育てられているのでしょう。人間的にできていない。人間味が無い。機械論的なのです。医者なのに人間を診ないでデータだけを見る人もいるというような話を、東京大学名誉教授の渥美和彦先生と『医者と歯医者の本音のアドバイス(85歳を過ぎたから言える!!医者まかせにしない健康長寿)』(下記写真の本)にまとめました。社会全体の責任だと思います。私が一番幸福だったのは戦時中辛い思いをしたことです。南瓜一切れで一日を過ごした私にとって白米のおむすびをくれた方は神様のようでした。芋と南瓜だけでも生きられるのですから、土壇場に来た人間はすごいものですね。求める氣持ちが足りない今の若者は、運も得られないのではないでしょうか。

藤平:藤平光一先生はどんな印象でしたか。

福岡:藤平先生はすごく偉い先生だとまず思いました。講義中は、眼光も鋭く、ただ怖いという感じでした。でも、講義が終わると好々爺。一緒に輪になって談笑して下さるので、皆がお側に近寄れる、そうすると父のように抱えて下さる感じですね。そんな先生でした。私は今でも教えてくださった氣のことを忘れず日常歯科臨床、統合医療に、そして毎日の生活にも活用しています。私の講演の内容も私なりに、全て藤平光一先生に教わったフィロソフィ(哲学)を伝えています。折れない腕、臍下の一点のデモンストレーションなど全部やってみせます。患者さんそして従業員との氣を交流させることの大切さも色々なところで話し、著書にも書かせて頂きました。私にとって本当の人生の「師匠」でした。
 こうして藤平信一先生が継承され、世界で活躍されていることを嬉しく思います。心身統一合氣道会の益々の発展をお祈りしています。

『心身統一合氣道会 会報』(第10号/2015年1月発行)に掲載

特別対談一覧

  • 2024年01月30日(火)

    工藤公康様 特別対談(その2)

    会報誌第41・42号に引き続き、ご好評をいただいた工藤公康様との特別対談をお届けいたします。 「線を引く」こと …

  • 2023年10月31日(火)

    伊藤精英先生 特別対談

    公立はこだて未来大学の伊藤精英教授は、生まれつき弱視で、10代で全盲となりました。心身統一合氣道を学ぶために、 …

  • 2023年06月30日(金)

    川嶋みどり先生 特別対談

    看護の仕事に70年携わられている川嶋みどり先生にお話をお聞きしました。川嶋先生は、ご自身の経験に基づき、「看護 …

  • 2023年03月31日(金)

    工藤公康様 特別対談(後編)

    前号に引き続き、工藤公康様との特別対談をお届けいたします。前編では広岡達朗さんのお話がたくさん出ましたので、後 …

  • 2022年10月31日(月)

    谷川武先生 特別対談

    今回は、睡眠について研究なさっている医学博士の谷川武先生にお話を伺います。谷川先生は、本年から心身統一合氣道を …

その他の特別対談一覧

無料体験・見学のご予約は、お近くの道場・教室まで
検索はこちら

当会では「合気道」の表記について、漢字の「気」を「氣」と書いています。
これは“「氣」とは八方に無限に広がって出るものである”という考えにもとづいています。


top